8月15日は、『終戦記念日』でございます。
昭和20年8月14日
『日本政府』は『ポツダム宣言』を受諾
翌15日
『昭和天皇陛下』の『玉音放送』により
人々は『日本』が負けたことを知って涙する
これが『終戦の日』であると
私達は、学校でそのように教わりました。
しかしながらまさにこの時
はるか北の『樺太』では、凄惨極まりない
『ソ連軍』と『日本』の人々との激しい戦争が
繰り広げられていたことを
知る人は、あまりにも少ないのでございます。
『ソ連軍』の『樺太侵攻』により
当時40万人いた『日本人』のうち
10万人は『北海道』に疎開
『樺太侵攻』による『日本人』犠牲者は
三千七百人と言われております。
『ユジノサハリンスク』から西へ車で約2時間
『間宮海峡』を見下ろす『熊笹峠』
『樺太の戦い』の激戦地を訪れました。
ユジノサハリンスクから西へ
2017年8月21日(日) サハリン時間午前7時
身支度を整え、ホテルのフロントへ
デスクに、誰もいらっしゃらないので
奥の部屋に、声をかけます。
「ドーブラエ・ウートラ」
(おはようございます)
中から、女性スタッフが出てこられました。
指さし会話超を開き、ルームキーカードを提示しながら
「ザフトラク パジャールスタ」
(朝食を、お願いします)
女性は、デスクの下から、朝食券を取り出し
渡してくださいました。
通じた!!少々、嬉しゅうございます。
サハリン3日目
今日は、『ユジノサハリンスク』から東へ93キロ
『サハリン』第三の都市『ホルムスク』を訪ねます。
9時に、ホテルのロビーで
イリーナさんと待ち合わせます。
ホテル名の駐車場では
ドライバーのアンドリューさんが
待っていてくださいます。
ワゴンに乗り込み、出発です。
雨のユジノサハリンスク
レーニン広場の前を通り線路を渡り
郊外へと向かってまいります。
『サハリン』で気づいたことがございます。
それは、歩行者優先で
ドライバーさんのマナーが、大変良いということです。
道路を横断しようとする歩行者を見かけると
車は、必ず止まってくれるのです。
ワゴン車は、ユジノサハリンスク市内を抜け
郊外へと走ってゆきます。
平原の彼方に、山々が連なります。
かつて訪れた
北海道を思い出します。
道路は、大変よく整備されており、快適です。
ふと、『モンゴル』の穴の開いた道路を
思い出してしまいます。
間宮海峡と内陸部を隔てる山岳地帯
山岳地帯に入りました。
河にかけられた、鉄道の橋梁も見えます。
かつての『樺太鉄道局』は
このような難所に、鉄道を敷設したのですな。
『豊真線』が廃線になってしまったのは
少々勿体ないような気がいたします。
ユジノサハリンスクを出て
1時間程度走ったでしょうか?
私達は、山間のホテルで
トイレ休憩です。
山頂より間宮海峡を望む
雨も、上がってまいりました。
ワゴン車は、再び東へと走りはじめます。
視界が開け、山々の向こうに
海が見え始めました。
『間宮海峡(タタール海峡)』です。
道路わきの平地に車を止め
私達は外に出ました。
雨は上がりましたが、とても寒いです。
どんよりとした空の下
彼方に広がる『間宮海峡』
道路わきの坂道を
歩いて登ってまいります。
展望台のような広場に出ました。
熊笹峠-間宮海峡を見下ろす慰霊塔
『熊笹峠』
1945年8月11日
ソ連軍は、北緯50度線を越え
樺太に侵攻します。
8月20日
敷香や豊原を目指して、侵攻した部隊とは別に
間宮海峡の港町、真岡にも、ソ連軍は上陸します。
兵士も民間人も区別なく、攻撃を仕掛けるソ連軍に対し
日本軍と義勇兵は、必死に抗戦します。
ここ熊笹峠は
最も戦闘の激しかった場所です。
日本人も、ソ連兵も
たくさんの人々が
命を失ったのです。
戦車が掲げられた塔には
今なお、花束がささげられています。
犠牲になられた方々のご冥福を
心よりお祈りお祈り申し上げます。
熊笹峠の坂を下り、
ワゴンでもうすこし進むと
間宮海峡が一望できる
絶景スポットがありました。
ここで、記念撮影。
坂を下れば、山々の麓に
『ホルムスク』の街並みが広がります。