中居重兵衛ー満座鹿沢口駅前の石碑に秘められた波乱の生涯

 

『JR吾妻線満座鹿沢口駅』

バスの車窓から見た山間の小さな駅舎の

道路を隔てた向かい側に
大きな石碑が建っておりました。

『中居重兵衛の碑』

はて

『中居重兵衛』とは
いったい何者だろうか?

歴史に疎い私ですが

旅を終えて数日後

気になりまして調べてみました。

『中居重兵衛』

資料は少なく
なかなか情報が集まらない状況でございますが

それらをつなぎ合わせますと

その人物像が
浮かび上がってまいります。

しかもこの人物

私の住む『横浜』に
大変ゆかりのあるお人でございます。

商家に生まれ学問修業で江戸へ

 

『中居重兵衛』は1820年

現在の『群馬県吾妻郡嬬恋村』の
とある商家に生まれます。

『重兵衛』二十歳の頃

商人として立身出世を志し
『江戸』へと向かいます。

『砲薬新書』は兵法の必須本

『江戸』へ出た『重兵衛』は

これも詳しい経緯がわからないのでございますが

蘭学者の『川本幸民』や
ドイツ人医学者として有名な『シーボルト』に出会い
『蘭学』を学びます。

『川本幸民』は
『日本』において初めて
『化学』
という言葉を生み出した人でございます。

『白砂糖』や『マッチ』
『銀版写真』

『日本』で初めて
『ビール』を醸造した『川本幸民』はやがて

『日本化学の祖』と呼ばれるようになります。

さて
『川本幸民』
『シーボルト』

2人の偉大な学者に師事し
学問を深めていった『中居重兵衛』が

ことさら研究に没頭したのが

『火薬』

でございます。

どのようなきっかけで
『火薬』に興味を持ったのか?

そのいきさつも
謎でございます。



1853年の『黒船来航』以来

海の向こうからは
諸外国の勢力が

国の中では
『尊皇攘夷』の思想のもと
『幕府』を倒さんと諸勢力が拮抗するなかで

来るべき戦いに備え

諸藩が軍備を増強します。

ところが
大砲を作るのだが、火薬がうまくできない

たまを撃てなければ意味がない

そんな状況のなか

1855年

『中居重兵衛』は自らの研究成果を
『砲薬新書』という本にして

諸藩の大名に献上したのでございます。

このとき、『重兵衛』35歳

『火薬』のエキスパート
『中居重兵衛』の噂は全国に広がり
『重兵衛』に火薬の知識を学ぼうと

諸藩の武士たちはこぞって
『重兵衛』にもとに押し寄せてまいったのでございます。

銅御殿ーそして悲運の最期

『火薬』の知識を通じて『重兵衛』は
諸藩の武士とのあいだに
大きな人脈ネットワークを築きます。

このネットワークにより『重兵衛』は
諸藩より良質な生糸を得て

開港した『横浜』を拠点に
生糸を諸外国に売り捌き

巨万の富を得ます。

『重兵衛』が『横浜港』のすぐ前に建てた屋敷は
『銅御殿』と呼ばれるほど絢爛豪華でございました。

ところが

これが『幕府』の怒りを買うことになります。

勢力を増す諸藩に
いつ倒されるかもわからない
一触即発の時代

火薬の知識に優れ
諸藩との繋がりも深い大金持ち

『重兵衛』の存在を
『幕府』が危険視しないわけはございませぬ。

『生糸輸出制限法』違反の嫌疑をかけられ
『重兵衛』は『幕府』に投獄され

1861年に獄死します。

『重兵衛』享年41歳

『重兵衛』の築いた『銅御殿』の跡が
『横浜市中区本町2丁目』に
いまもひっそりと存在いたします。

『化学』の知識と
『商人』としての手腕を備え
波乱の生涯をおくった『中居重兵衛』

いったいどんな人となりであったのでしょうか?

あれこれ想像を働かせてみますのも
またおもしろいものでございます。