『真岡郵便局事件』から72年-鎮魂の念を胸に合掌

 

『内地のみなさん、これが最後です! さようなら さようなら!』

1945年8月20日

『樺太』の西『間宮海峡』に面した港町

『真岡』にも『ソ連軍』は上陸してきました。

絶え間ない艦砲射撃と想像を絶する銃撃戦の中

『真岡郵便局』の電話交換手として
『樺太』から船で脱出する人々と
『北海道』本土との通信業務を

最後まで守り抜き殉職した、19人の人々

『北のひめゆり』とも言われる『真岡郵便局事件』から
72年の歳月が流れました。

『間宮海峡』の港町『ホルムスク』と
『真岡郵便局』跡地を訪ねました。

間宮海峡に面した港町ホルムスク

『熊笹峠』からワゴン車で山を下りると
『間宮海峡』に面した港町、『ホルムスク』に到着します。

海岸線沿いの通りの山側には
商店や住宅が軒を連ねています。

そして海側には
整備された広い公園があります。

公園の駐車場にワゴン車を止め
外に出てみます。

海風が強うございます。

 

しかしながら、山の上の寒さとは
打って変わって
暖かいのでございます。

 

桟橋の後でしょうか。

コンクリートの道が、海岸に突き出ております。

足元に気を付けて、先端近くまで行ってみます。

目の前には、間宮海峡が広がり
振り返れば
山の傾斜に向かって
ホルムスクの街が、広がっております。

 

どことなく、哀愁を感じる
情景でございます。

桟橋から戻り、公園に向かって
歩いてまいります。

芝生と、煉瓦に敷き詰められた
美しい遊歩道を歩き

海岸のベンチに座り
水平線と、山に広がる街を
眺めます。

対岸には、港と、クレーンが見えます。

日曜の朝とあって
皆さま、ゆっくりされて
おられるのでしょうか?

静かで、時折散歩する方を
お見かけする程度です。

真岡郵便局跡地

公園をあとに、再びワゴンに乗り
海岸通りを、南に5分ほど進みます。

コンクリートの建物の1階に

郵便局があります。

『旧真岡郵便局』です。

鎮魂の念を胸に合掌

1945年8月11日

樺太への侵攻を開始した
ソビエト軍の攻撃は

8月14日のポツダム宣言
翌15日の玉音放送の後も
止むことがありませんでした。

大本営は、民間人を樺太から
緊急疎開させるべく、船舶による
大脱出計画を敢行します。

8月16日

真岡郵便局で、電話交換業務に従事する
若き女性たちに対し

主事補はこの現状を話し

仮にソ連軍が上陸しても
電話交換業務の移管が行われるまでは
業務を遂行しなければならないこと

残って交換業務に従事してもらえる人は
一度家族と相談したうえで
返事を聞かせてほしいと、話しました。

その場にいた全員が手を挙げ
残留する意思を示しましたが

主事補は
今日は希望者は募らないとして
彼女らを一旦家に帰します。

8月17日
彼女たちが全員疎開せず
局に残留する血書嘆願する
用意をしていることが
局長に伝えられます。

局長は、ソ連軍進駐後に予測される
事態を説明し、彼女たちを説得しますが

彼女たちはそれに応じませんでした。

最終的に、局には20名を残し
海底電線敷設線『小笠原丸』を
真岡に寄港させ、彼女らを救出する手筈を
整えます。

(この後『小笠原丸』は、樺太沖で
ソ連の潜水艦に撃沈されます)

残留した20人は、疎開する仲間たちに
励ましの言葉を贈ったといわれています。

8月19日
緊急事態体制が敷かれ
勤務は3交代制から2交代制に移行し
夜間体制に12名が局で業務を継続します。

8月20日朝
ソ連軍は真岡に上陸
真岡郵便局は、ソ連軍の艦砲射撃を受け大破

ぎりぎりまで電話交換業務に従事した12人は
一人、また一人と青酸カリを服用し
9名の命が失われました。

ソ連軍が迫りくる中
郵便局に向かおうとした仲間たちも
その多くが
銃弾と手榴弾により倒れたのです。

今日は8月20日

あまりにも悲惨な事件より

72年の時が流れました。

命がけで職務を全うし
この世を去っていった
若き乙女たちの御霊が
安らかでありますように

心より哀悼の意を込め
合掌いたしました。

コメント

  1. 小林 篤司 より:

    本日、靖国神社遊就館にて9人のご遺影を拝見いたしました。 なぜ郵便局にて9人の女性が自決したのか知らなかったため大変衝撃をおぼえました。 いまこの国で幸せに暮らしていけるのはこうした方々のおかげだと思います。 職務を全うした勇気に尊敬をいたします。
    御霊が安らかであるよう願います。

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