タイ王国-激動の時代のうねりのなかで

2013年

国外に亡命しているタクシン元首相を
帰国に導くべく

インラック首相は、恩赦法の制定に向け
国会に法案を提出します。

タクシン派の人々は、これを歓迎しますが
反タクシン派の人々は、これに反発します。

これが、やがて大規模なデモに発展しました。

 

 

タイは、貧富の格差が大きく

農村部を中心とするタクシン派の人々と

都市部を中心とする反タクシン派の人々は

対立をしておりましたが

このことが、バンコクでの大規模なデモの
引き金となったのでございます。

 

インラック首相から提出された法案は
結局、廃案となりましたが

デモは鎮静化することがなく

2014年

インラック首相は、非常事態宣言を発令

バンコク市内において、夜間の外出が禁止され

デモによる混乱は、鎮静化するかに見えました。

 

 

ところが

政府の要職に身内を登用したことは、憲法違反であるとされ
インラック首相は、首相の座を解任されてしまいます。

これにより、デモは再燃し、
やがて銃撃戦にまで発展します。

 

 

泥運の混乱状態に、「待った!」をかけたのが
陸軍のプラユット司令官です。

 

 

プラユット司令官は,メディアを通じて
戒厳令を発令。そののち

 

 

国家平和秩序評議会を設立し
その議長として、国民に対し

混乱の収拾と、秩序の回復を呼びかけます。

 

プラユット議長は

混乱した事態の収拾と、国民同士の信頼の回復

混乱によって失われつつある、世界からの信頼回復に向け

さまざまな政策を打ち出し、実行します。

 

汚職など、悪しき慣習に対して
容赦なくメスを入れ

 

 

深刻な被害をもたらす水害や

環境汚染に対しては
果敢に改善計画を打ち出し

 

 

長年に渡って蓄積された膿みを出し切る為
厳しい施策を断行する一方で

国民に対して、適宜質問を投げかけ
その声をききながら、タイの平和と安定に向け
政策を実行してゆきました。

 

その後、プラユット議長は
暫定政府の首相に就任します。

プラユット首相の厳しくも果敢な政策は
しだいに国民に理解され、受け入れられ

2014年8月の国民投票において
新憲法草案が、賛成多数で可決いたしました。

 

 

混乱を脱出し、新時代に向け
第一歩を踏み出した、タイ

そうしたタイの国民を
大きな悲しみが襲います。

 

 

 

2016年10月13日

70年にわたり国王として在位され
国民からこよなく敬愛される

プミポン・アドゥンヤデート国王陛下が

崩御されたのでございます。

 

プミポン国王陛下は

これまで幾度となく起こった
国の混乱を平和的に解決に導かれ

国民にたいしては

『足るを知る経済哲学(セータキット・ポーービーアン)』
をご提唱され

持続可能な経済発展の実現に向けて
300ものロイヤルプロジェクトを
実行されました。

 

 

国王陛下のご遺体は
王宮に安置され

1年後の2017年10月に
ご葬儀が行われることとなりました。

 

 

 

私達夫婦は、2017年3月9日(木)から13日(月)まで
バンコクを訪れました。

今回は観光ではなく、とあるセレモニーに
出席するためでございます。

バンコク渡航中は、ほとんど所用で
動き回っており

観光できたのは、『ワット・ポー』1か所でございました。

 

しかしながら、タイの歴史的な転換期に
バンコクの地におりました。

これも、ご縁と申し上げることができましょう。

わずかではございますが
その時の様子を、記させていただきます。

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