ネベリスクーサハリンで最も美しい海岸沿いの街

『ユジノサハリンスク』より車で約2時間
『間宮海峡』に面した『ネベリスク』は
『サハリンのクリミア』と言われるほど
風光明媚な場所でございます。

海岸線に沿って連なる山々の稜線と
水の澄んだ『間宮海峡』が織りなす風景は
まさに必見でございます。

『トド』の生息地としても知られる『ネベリスク』
早速、巡ってみることといたしましょう。

間宮海峡沿岸を走る

『ホルムスク』の街をあとに、『間宮海峡』沿いの道路を
南に向かって走ります。

石炭を積んだ貨車をけん引するディーゼル機関車と
すれ違います。

どこまでも続く水平線

波はおだやかで、美しい海が
窓の外に広がります。

海岸線からは、すぐに山へと続き
地形は少々複雑です。

線路の上を、犬を連れて
散歩する方がいらっしゃいます。

これから向かうのは、『ネベリスク』

『サハリンのクリミア』と呼ばれるほど
風光明媚な場所だそうです。

到着が楽しみですな。

真新しい団地が連なる街が見えてまいりました。
『ネベリスク』でございます。

間宮海峡沿岸の美しい街『ネベリスク』

車を降りて、団地の前の、海に面した
広場を歩きます。

おや、海に入って、漁をしておられる方がいらっしゃいますな。

足元の、海の水の底をよく見れば
階層の間に、丸いウニがおります。
澄んだ海の水面をみておりますと
豊富な魚介類が摂れるということも、頷けます。

『間宮海峡』

『日本海』のように、荒い波の打ち寄せる
豪快な海を想像しておりましたが
海はたいへん穏やかで、水が澄んでおります。

団地と海岸を隔てる、きれいな公園で
お子さんとご家族が、遊んでおられます。

海は美しく
静かでおだやかな街でございます。

ネベリスクの歴史

18世紀から19世紀にかけて、この地に『アイヌ』の方々の集落がありました。
集落の名は『ポント・ケシ』『アイヌ』の言葉で
『小さな岬の端』という意味でございます。

1905年 『日露戦争』に勝利した『日本』は『ポーツマス条約』により
『サハリン』の北緯50度以南を領土とします。

『樺太』統治時代に始まりとともに、この地は『真岡郡本斗町』と命名されます。

1915年 『樺太庁』第4代知事『岡田文次』は
『本斗』に最小限のコストで港湾を整備したいと考え
『樺太』南西の火山性の島『海馬島』より石材や砂を調達し
この地に港を造り1927年に創業を開始しました。

『本斗』の港は『樺太』で唯一、冬でも凍らない港でございます。

『対馬海流』は『暖流』でその殆どは『オホーツク海』へと流れますが
わずかに『間宮海峡』の南にも流れて来るためです。

『本斗』のわずか北に位置する『真岡』では
冬の海はシャーベット状になってしまうのです。

『本斗』の沿岸部には、1920年から25年にかけて防波堤が建造されました。

また1920年10月に『真岡』-『本斗』館の鉄道が開設され
貨物や乗客が行き来するようになります。

こうして発展を遂げた『本斗』

1945年8月の『ソ連樺太信仰』により
『日本』の統治時代は終焉を迎えます。

『ソビエト社会主義共和国連邦』の支配となったこの地は
『ロシア』の司法長官であり『極東地域』の研究家でもあった
『ゲンナディ・イワノビッチ・ネーベルスコイ』にちなんで
『ネベリスク』と命名されます。

1972年『ネベリスク』は『北海道稚内市』と『姉妹都市』になります。

2007年8月2日に発生した『サハリン沖地震』で
は震度6を観測し甚大な被害をもたらしました。

約80棟1,600戸のマンションや学校などの公共施設が損壊
し3,200人の方々が被災されました。

その後災害援助金により50棟のマンションが新築され
公共施設も修復され現在に至っております。

街の中心地へ

ガイドのイリーナさんが
近くの売店で、アイスクリームを
買ってきてくださいました。

少々、暑くなってきましたので
アイスクリームの冷たさが
とても気持ち良いのです。

イリーナさん
ありがとうございます。

一息いれたところで
ふたたび出発。

街の中心地へとまいりましょう。

 

ネベリスクはトドの生息地としても有名

はるか沖合いの
防波堤の上で、何か動いています。

『ネベリスク』付近の海岸線は
『トド』の生息地として有名でございます。

ところが、2007年の『サハリン沖地震』後
津波対策として、防波堤の高さを上げる工事をしたところ
『トド』が半減してしまったそうです。

防波堤の上に、登れなくなってしまったのですな。

倒れた漁師の碑

1965年1月19日 『ベーリング海ブリストル湾』で操業していた4隻の漁船
『ボクシトゴルスク』『セブスク』『ナフチバン』『セベス』は

猛烈な嵐と寒波により沈没し1、20名が犠牲になりました。

2年後の1967年 犠牲者への哀悼の意を込めて
『倒れた漁師の碑(fallen fishermans monument )』が建てられました。

四方を海に囲まれた『サハリン』にとって
漁業はこの地に住む人々の産業の要でございます。

2度とこのような悲惨な海難事故が起きないように
犠牲者の追悼と海への安全祈願が込められております。

この石碑はもともとは別の場所に建っておりましたが
2007年の『サハリン沖地震』で倒壊した後
この『間宮海峡』に面した美しい広場に移設され
現在では観光名所となっております。

ショッピングセンターや教会、警察署などが建つ
街の中心部を抜け

ワゴンは、海岸線がひときわ美しい
砂浜で停車します。

間宮海峡の澄んだ水は、真夏でも氷のよう

ここは、思い切って
靴を脱いで
波に足をつけてみましょう。

美しく、澄んだ『間宮海峡』の水

真夏だというのに
氷水のように冷たく
ビックリしてしまいました。

こんな海で泳ごうものなら
まるで寒中水泳でございますよ。

それでも
短い夏を、すこしでも多く楽しもうと
ビーチでくつろぐ地元の方々が
いらっしゃいます。

年甲斐もなく、水際ではしゃぐ私達に、

通りがかったご婦人とお嬢さんが
海水を掌ですくって
私達の掌に注いでくださいました。

本当に、冷たくて気持ちがいいですね。

ありがとうございます。

それにしても
本当に美しい海岸です。

『サハリンのクリミア』と呼ばれるのも
頷けるお話しでございます。

『間宮海峡』
当初は、小樽や青森の深浦で見た
日本海のような、荒波うねる海を
想像していたのですが、

実際はとても穏やかな海です。

さて、足の裏の砂を払って靴を履き
ワゴン車に乗り込みます。

ふたたび、街の中心地へ。

ネベリスクと稚内は姉妹都市

高さ3メートルほどの
白い柱のような
モニュメントが建っております。

日本語で
『ネベリスク・ロシア-稚内・日本』
と書かれております。

ネベリスク市と、稚内市は
姉妹都市なのでございます。

海と山にかこまれた
美しい街『ネベリスク』

『サハリン』においでの際は
ぜひとも『ネベリスク』に
いらしてくださいませ。

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