ユジノサハリンスク鉄道歴史博物館-資料室編

『サハリン』5日間の旅の2日目

私達夫婦は、『ユジノサハリンスク駅』に併設された
『鉄道歴史博物館』を見学いたします。

鉄路の横の屋外展示場には

蒸気機関車やラッセル車など
珍しい車両が展示場されており

道路を隔てて、屋外展示場の向かいの建物の二階は
鉄道資料室となっております。

館長のアンドリューさん
はるばる日本からやって来た私達夫婦を
暖かく迎えてくださり

『日本』と大変深く関わりのある
『サハリン』の鉄道の歴史について
熱く語ってくださいました。

アンドリュー館長との出会い

2017年8月19日(土)サハリン時間午前11時30分

私達夫婦は、ガイドのイリーナさんとともに
ユジノサハリンスク駅の向かい側の
『鉄道博物館』にまいります。

私達を、出迎えてくださったのは
博物館館長の、アンドリューさんです。

身長185cmはあろうかという
長身の老紳士でいらっしゃいます。

日本語で
「おがわさん」と
声をかけてくださいました。

私も
「オーチン・ブリャートナ」
(初めまして)と
ロシア語でご挨拶します。

鉄道博物館展示室の建物、入り口の扉を経て
階段を上がりますと、2階が展示室となっております。

階段をあがったところに
一枚の立体地図が掛けられています。

この図は、
ロシアのラザレフから
サハリンの北西部に
間宮海峡の下を通るトンネルを建設し
さらに
クリリオン岬から
北海道の稚内まで橋を架け
サハリンを経由して
日本とロシアを鉄道網で結ぶ
構想図です。

さて、2階の展示室に入りますと
さまざまな資料が展示されております。

時間はあるかね?

「時間はあるかね?」

「はい、十分に」

アンドリュー館長
指し棒を手に

壁にかかった
サハリンの立体地図で
サハリン鉄道の歴史を、講義してくださいます。

イリーナさん
一生懸命、通訳してくださいます。

樺太鉄道局が築いた鉄道路線

アンドリュー館長の
講義の内容を要約いたします。

かつて、サハリンが『樺太』として
日本により統治されていた時代

樺太鉄道局が設立され
鉄路によるインフラ建設が、はじまりました。

当初、北海道への玄関口として栄えた港町
『大泊(コルサコフ)』から
内陸の平野部
『豊原(ユジノサハリンスク)』へと
人口の流入による、街の発展を推進すべく

『大泊』-『豊原』間に、鉄道が建設されました。

これが『樺太東線』です。

鉄道網は海岸沿岸部から内陸へ

その後『樺太東線』は、『豊原』から北へ
『落合(ドリンスク)』
『敷香(ポロナイスク)』
まで延長されます。

その一方で

間宮海峡の港町
『真岡(ホルムスク)』や
『本斗(ネヴぇリスク)』を結び
鉱山からの鉱石を運搬する
『樺太西線』も建設されました。

さらに、『樺太鉄道局』は

アニワ湾の港町『大泊』
内陸の街『豊原』
間宮海峡の港町『真岡』『本斗』
を結ぶ路線

東西の樺太線を結ぶ
新たな路線を計画しました。

険しい山岳地帯を走破する恐るべき鉄路

ところが
『豊原』と『真岡』の間には
山岳地帯が横たわっています。

『樺太鉄道局』は
恐るべき技術力をもって
この山岳地帯に鉄道『豊真線』を建設し
『豊原』と『真岡』を結んだのでした。

この路線には、8箇所のトンネルと
50にも及ぶ橋梁が敷設されました。

中でも特筆すべきは
『宝台ループ線』

真岡方面より、トンネルを入り
時計回りに、坂を登り
1回転してトンネルを出て
地上40メートルの鉄橋を渡り
山岳地帯へ向かうというものです。

アンドリュー館長が
当時の鉄道局の技術者が作成した
鉄道の測量資料を見せてくださいました。

縦長の、大きめの手帳ぐらいのサイズですが
蛇腹状に折りたたまれており、横に開くと
鉄道上のすべての地点の高さが記されております。

地形が、いかに複雑であったかが判ります。

ソビエトは日本の鉄道を継承・大事に維持運用

1945年終戦以降
樺太はソビエト社会主義連邦共和国に統治されますが

鉄道もまた、ソビエトにより
管理運営されます。

線路の幅がソビエト本国と違う!?

ところが、一つ問題がございます。

それは、
日本とソビエトでは、線路の幅の
規格の違いです。

日本は、狭軌方式(1067mm)
ソビエトは、広軌方式(1520mm)

ソビエトでつくられた車両は
樺太鉄道を走れないのでございます。

そこで、樺太鉄道局時代に使われた機関車や客車を
継続して使用したり

狭軌仕様の車両を新たに建造して
運用いたしました。

シベリアとサハリンを繋ぐ苦渋の鉄道インターフェース!?

ホルムスク港と、間宮海峡を隔てた
大陸側の都市『ワニノ』の間には
『鉄道連絡船』が運航されております。

『ワニノ』は、『バイカル・アムール鉄道』の
主要駅の一つでございます。

『タイシェト』から、バイカル湖の北にある都市
『セヴェロ・バイカリスク』を経て
『ワニノ』に至った列車は

『鉄道連絡船』に搭載され、間宮海峡を渡り
『ホルムスク』に至ります。

そこで、車体を持ち上げ、
車輪を交換し、サハリンの鉄路を
走ったのだそうです。

ペレストロイカ以降は苦しい台所事情に

ペレストロイカ以降
『豊真線』は、需要の減少と
維持費の増大により廃止となります。

残った路線は、順次
狭軌から広軌に移行され
現在に至っております。

さて、この展示室
サハリンの鉄道に関する
いろいろな資料が展示されておりました。

アンドリュー館長現役時代の制服も!

ガラスケースには

アンドリュー館長が
サハリン鉄道の要職に就かれていた頃
着用されていた制服が展示されています。

定年退職された際に
この博物館に、寄贈されたのです。

その他、以前ここを訪れた
日本の方々がおいて行かれた

日本の特急が描かれたテレフォンカード
横浜-二俣川間の切符
ロシア語指差し会話帳
(これ私も持っています)

がありました。

さて、資料館を出て
屋外の車両展示場
案内していただきます。

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